奈良時代・天平神護二年(766)に、聖武天皇の娘の称徳天皇によって現在の東山松原通の地に寺が建立されます。 当時はこの地を、山城国愛宕郡(おたぎごうり)と言いましたが、この寺も愛宕の地に最初に建てられたので愛宕寺と名付けられました。
これが平安になって醍醐天皇の御代のころに、鴨川の洪水で全て流れて 廃寺となってしまいます。 後にその復興を命じられたのが天台宗の僧 千観内供(せんかんないぐ) (918-984)でした。
千観は生涯念仏を絶やすことがなかったということから「念仏上人」と 称され、寺の名前も後に愛宕念仏寺と言われるようになりました。 千観は自ら一刀三十三礼をして本尊を彫ったと伝えられており 「厄除千手観音」の名で厚く信仰されてきました。
現存の本尊は本堂と共に鎌倉期のものですが、その御面の眼差しが 左右対称ではなく、厳しさと優しさという仏の慈悲の二面性を、顔の 左面右面に分けて表現されているということから「慈面悲面の千手観音」 と称されています。本堂(重要文化財)は鎌倉中期のものですが、 大正11年に堂宇の保存のために移築され、嵯峨の愛宕念仏寺として 再興されました。地蔵堂には、「火之要慎」のお札で知られる、 あたご本地仏「火除地蔵菩薩」(平安時代)がまつられています。
戦時中に無住寺となり、昭和25年の台風災害により境内・堂宇・仏像 等が多大な被害を受けたことで廃寺となっていましたが、昭和30年に 仏像彫刻家 西村公朝(1915-2003)が住職を拝命してより再興され、 京都一の荒れ寺の復興が始まりました。
昭和55年より10年間、山門の解体復元修理をはじめ、境内全域の 本格的な復興事業が行われました。 この時、寺門興隆を祈念して 境内を羅漢(お釈迦様の弟子たち)の石像で充満させたいと発願 しました。 これに賛同した一般の参拝者自らの手によって彫られた、 千二百躰の羅漢像が表情豊かに並び、訪れる人々の心を和ませてくれる 「癒しの寺」として親しまれております。